帰らないネコたち

 

これは、フォト日記「犬と猫の日々」に連載していたものを改めて

ひとつにまとめなおしたものです。

捨て猫たちの末路の一旦をうかがい知ることができます。

それと同時に安楽死というものについて

あらためて考えさせられます。

同じような経験をお持ちのかたもおいでかと思います。

ご意見ご感想などありましたらご連絡ください。

 


この子たちの写真を長い間見ることが出来なかった。
2匹のミケちゃん、手前をコミケ、後ろの少し大きい子をただミケと呼んだ。
他に白黒のカワクボさん、茶とらのワブがいた。みんな拾った子だし名前は仮の名前だ。
当時まだ中学生だった娘が学校の正門わきにダンボールにいれておいてあったのを抱えて帰ってきた。中に3匹はいっていて、一匹逃げたという。
翌日雨の中探してその子もみつけて拾ってきた。
ご覧のようにがりがりにやせてぼろぼろ。酷い有様だった。
すぐにエンドー先生にかけこむ。中学校の正門脇に置いてあったというと
思いの外先生が怒った。
「なんて言う大人だ。学校のわきにおいて、責任を子供に押しつけるなんて。
飼えないなら自分の手で殺すやつのほうがまだましだ。」
先生の怒りに助手の先生も黙り込む。
とにかく全員が風邪をひいているので、その治療が始まった。子猫を拾うとたいてい風邪をひいたり、鼻気管支炎をおこしている。1週間の通院でたいていよくなる。この子達も1週間くらいでほとんど良くなってきたかに見えた。
顔がきれいになったらそろそろ写真をとって里親募集をしなくては・・・。
7,8年も前のことでまだPCはなかったからポスターを貼ったり、チラシを配ったり、ネコ雑誌に載せたりというやりかたである。ところが良くなったはずなのに顔がいつまでも汚いのだ。めやにがいつまでも出ている。抗生物質のはいった目薬もいただいているのに。一度ネコを見に来た人が「安い先生にみてもらっているからなかなかよくならないんじゃないの」などと失礼なことを言う。
なにかおかしい・・・・。そう思うまでにあまり時間はかからなかった。


 


これはカワクボさんのお顔。この子は怒りんぼうで、用心深い。
一番たくさん食べていつも食べながら怒っている。
体も「あなた、本当にこの子達と家族なの?」と聞きたくなるくらい大きい。
治療が大分進んでもこの顔である。
先生にみせると「いやな予感がする」といって、一番弱っているコミケの血液検査をすることになった。結果は先生が電話で知らせて下さった。電話口の先生の声がとても暗かったのを今でも覚えている。ゆっくり気遣って話してくださっているのがわかる。ああ、大変なことなんだな、と覚悟する。
猫伝染性腹膜炎である。これまでの経験から拾った子猫達をもともと飼っているネコたちと接触させないほうが良いと知っていたので、その点は安心できた。しかし、うまれて1ヶ月半しかたっていないこの子たちにはあまりに過酷な結果である。
この病気は日本にもともとあった病気ではなく洋ネコがもたらしたものだという。治療方法も予防方法もまだない。
今後どのようにするのか先生と話し合った。
「対処療法しかないよ。しないよりはまし、という程度の注射しかないよ。僕は4匹全部に注射をして360円でいいよ。あとはそれがどのくらい続くかわからないし、暑い中毎日ネコをつれてここに通えるかどうかだよ。僕はいいよ。どうする?」
「注射をすれば少しでも進行を遅らせられるのですか?
少しでもネコが楽なのですか?
それなら私、通います。お願いします。」
「わかった。じゃ明日からさっそく毎日通ってね。」
こうしてほとんど夏の間じゅう、子猫をキャリーにいれて動物病院に通い続けることになった。


 


カワクボさんは成長が著しく早かった。男の子である。
家のネコ達とはもちろん食器もトイレも別。そこから感染する。だから廊下に新聞を敷いてそこで食べさせる。かたずけた後はぞうきんがけをし、消毒用のアルコールのスプレーをまいてきれいにする。手もよく洗う。食器は発砲スチロールを使い捨てにした。
食事の後は猫じゃらしなどで遊ぶ。コミケ以外の子達はおたがいにじゃれあってよく遊んだ。コミケは病院に行くたびに細いガラス棒でくっついた瞼と舜膜をゆっくりとひきはがし、軟膏をつけてもらい、目薬をさした。毎日やっていないとすぐにくっつく。目がおぼつかないし体も小さいので仲間と遊ぶことはむずかしかった。でもミケは心配そうによくよりそっていた。
ミケとワブは頭がとても良い。すぐに懐いたし、この二人が仲良しだった。
けれどカワクボさんはいつも一人で機嫌が悪かった。

そのカワクボさんがまもなく死んでしまった。突然あっけなく。
あまりのことに驚きをかくせなかった。一番元気だったのになぜ?
一番よく食べていたのにどうしてなの?
カワクボさんどうしたの?

お腹が大きかったのは腹水のせいで背骨はコリコリと触れた。
亡くなる日も朝たくさんご飯を食べて他の兄弟たちに怒っていた。
この病気は亡くなる日まで食欲はおちない子が多いらしい。
1匹減って3匹になった。その3匹を今日もつれていく。
黙ってキャリーを開く。1匹減っているのにすぐに先生も気付く。
この病気は死ぬときもそれほど苦しまないから・・・と慰めてくれる。

靴の箱に、庭のお花と一緒にいれた。靴の箱が大きすぎる。
伝染性腹膜炎の母胎感染。
いったいなんのために産まれて捨てられて病気で死ななければいけないんだろう。なんという運命なの。
私は涙ぐんだけれどまだ大泣きしている場合ではなかった。


 


カワクボさんの死が、私にこの病気が治らないことを思い出させた。
ときどきふと、この子達はやっぱり助かるのではないかしら、と考えたりしていたのだ。ご飯を食べてひとしきり遊んで転げ回って大騒ぎして、疲れると
みんなそれぞれに私の体にはい上がってきて膝や腕にくっついてうとうとと寝始める。コミケだけは満足に目も開けることができないので、ご飯を食べるとすぐにひざに昇ってくる。ここが一番安全だと思うらしい。
特に茶とらのワブの元気なことといったらない。この子はメヤニもないし、病気には見えないだろう。
コミケの背中の柄がとても美しい。ちゃんと病気が治って大きくなったらそれはきれいな美人三毛ちゃんになりそうだ。そんなことをつい考えてしまう。
みんな安心しきって寝こけている。目をさまさないように一匹ずつそっと箱で作ったベッドにもどす。
3匹はもう2ヶ月になっていた。


 


コミケが死んでしまった。
自分のせいではないとわかっていても無力さを感じる。
体があまりに小さくて靴の箱の中で動くと可哀想だと思い、庭のお花をたくさん詰め込む。いつもは大事にしているお花だけれどこの子のためなら全然惜しくはない。
死ぬときがどんなだったか、全く思い出せない。両手にずっとかかえていたことだけは覚えているのだが、何をしたか、どんなふうに声をかけたのか、全く覚えていないのだ。

3匹を連れて病院に行き、待合室にいたときそっとキャリーの中をのぞくととなりの女の人も一緒になってのぞきこむ。
「まあ、可愛い!!うまれてどのくらいなの?」
「2ヶ月です」
「お家で産まれたの?」
「いえ。拾ったんです」
「あらまあ。でも可愛いからきっとすぐにもらいてがつくわよ」
私は何も言わなかった。ただ曖昧なうなずき方をして、ゆがんだ笑顔をみせたかもしれない。心の中では・・・「この子達にはもうあまり時間がないんです。」と叫んでいた。その人が悪いわけではないのに、もう話しかけないでほしいとおもった。

明日からはもう2匹だけだ。


 


次々に子猫達は死んでいった。
伝染性腹膜炎は幼ネコ期での発症が最も多くそれ以降はキャリアであっても発症せずに居る場合がある。しかし高齢になってくると再び発症率は上がって来るという。血液検査をすると抗体値の多少によって判断することができるが、ひとたび罹患すれば治らないことに変わりはない。
カワクボさん、コミケ、ミケと3匹とも腹水がたまって、よく食べているのに背骨が触れるほどにやせていた。食欲だけはあって徐々に元気がなくなってくる。
一方ワブは食欲があり元気で腹水もたまっていない。
4匹で一緒のお母さんから産まれたのだから1匹だけ感染を免れているとは思えないがキャリアのままなんとか過ごすことはできないだろうか。そんなふうに考えはじめていた。
ワブというのは変な名前である。仮の名にしてもネコらしくない。この子は鳴き声が「ワブー」と聞こえるのだ。ニャーとなくところは一度も聞かなかった。それでワブと呼ばれることになった。賢くて遊び好きだ。体がだんだん大きくなって2階にひとりであがれるようになった。それで、我が家の先住ネコたちは1階で生活し、ワブは2階で生活するようになった。たいていは息子の部屋のベッドでころころしたり、ひなたぼっこをしたり、寝たりしてきままに過ごしていた。ときには娘の部屋で一緒にひるねしたりもしていた。手の掛からない抜群に良い子だ。
ワブに血液検査をうけさせることにした。エンドー先生もそのほうが良いだろうと考えて下さった。
結果はほどなくでた。やはり抗体値は非常に高かった。こんなに元気なのに不思議なきすらした。
ワブはそんなことはおかまいなしに元気に良い子に成長を続け子供達との交流を深めていった。


 


ワブはどんどん大きくなった。
取り入れて畳んですぐのまだお日様の匂いのする洗濯物が好きだった。
よく息子のベッドの上で洗濯物によりかかっていた。
ある日ワブの水を入れたお皿の中に何か落ちているのに気が付いた。また何か新しい症状でもでたのかしらと心配になった。
指ですくってみるとそれは抜けた歯であった。少し血がついていた。
4ヶ月になって歯が大人の歯に生え替わり始めたのだ。拾った歯をそっと洗い、大事に箱にいれた。小さくて細かいギザギザのついた歯だ。
ワブが大人になろうとしてがんばっている。


 


ワブは順調に大きくなって行くかに思えた。なんでも覚え、遊びが好きで、2階だけで生活するということをわきまえていた。私も病気のことを忘れがちになっていたのだが、ある時から抱き上げるときに「キュウ」っと苦しそうな声をだすようになった。抱き上げるときは腹水のことが頭にあったので腹部を圧迫しないように胸のほうを抱き上げていたのだ。そんな日がしばらく続いたあと、いつものように肩にのせて家の中を歩いていると呼吸の音がおかしい。
ゼイゼイというのでもなくなんといったらよいのか、スカスカという雑音がする。
食欲も少し落ちてきた。あまりぐっすりと眠れていないようだ。
症状が安定していたため注射を休んでいたのだが先生のところに連れていった。
先生の顔は非常に暗かった。
肺に水が貯まったのだ。
すぐに水を抜いて貰った。片方ずつ肺に穴を開けてドレーンという細いチューブを差し込み、水を受け皿で受ける。ワブは大人しくしていた。
それは水とよべるようなしろものではなかった。黄色くてドロリとした液体だ。
先生はそれが腹膜炎による肺からの水に独特の色なのだという。
片方が終わるともう片方にかかる。もちろん軽く麻酔はしているが、外からドレーンを刺し、肺までいれてしまうのだ。
量が思ったより多い。先生も随分多いな、と言っている。
「今日はこうして抜いたけれど1週間でまた同じ状態になるよ。お腹にたまるときは拡がるから逃げ道があるけど、肺は肋骨に覆われていて逃げられないから、相当苦しいと思ったほうがいい。」
それはつまるところ、安楽死も視野にいれなければならない、命の期限をつきつけられることであった。
「わかりました」とだけ答えた。夢の中で返事をしていた。
先生はまた殆ど治療代をおとりにならなかった。
そして先生の顔もとてもつらそうだった。


 


肺から水を抜いて帰ってきたワブだけれど、家族全員に、長く生きながらえさせることのほうが、この子にとっては苦痛であることを話した。
水を抜く前、いつ見てもスフィンクスのように座っているかその形で眠っていた。先生によるとその恰好が一番肺が楽なのだそうだ。だからこの形しかとらなくなったら、相当に苦しくなってきたということだ。
今日は水を抜いたから久しぶりに好きな恰好で眠れる。ご飯も食べた。でも、なぜか表情がうつむきがちで明るくはない。ワブは病気に疲れたのか少し枯れた表情になっていた。
家族の一人一人が肩にワブを抱いて写真をとった。もうあと1週間でお別れかもしれないから。ぼんやり見える写真の日付は’95.10.14となっている。6月に1.5ヶ月だったから5ヶ月にはなっている。
なるべくそばにいようと思い、家事をしたり動いているときもそっと肩にのせたりしていた。肺を圧迫しないように肩にうまくのせていた。ワブもいつもじっと良い子にのっかっていた。
1週間が過ぎた。
以前、エンドー先生に肺の水を抜きに行ったときほど呼吸は苦しそうにはなっていない。
もう少しいける。そう思った。まだこんない元気にしていられるのだから安楽死なんて遠い先の事だと思った。

いつの間にか2週間がたち、3週間がたった。

肩にのせているとまたあのゼロゼロいうようなおかしな呼吸音になってきた。
食欲もおちてきた。食べたり遊んだりするよりはとにかく呼吸すること。そのことに全神経を使っているようだ。
それから苦しくないようにスフィンクス座りになってきた。
息をすることがとにかく精一杯の様子である。すぐに息切れする。
食事をすぐそばまではこんでやり、ゆっくり食べられるように離れている。
自分のペースでゆっくりすればいい。トイレもきちんと自分で行っている。
ただ高いところから飛び降りると息が本当に苦しそうだ。それでもベッドの上や椅子の上が好きで自分で昇ってしまう。

4週間目にはいったとき、さすがに限界を感じはじめた。あまりに苦しそうだ。
決断をしなければいけないのだ。いつまでも引き伸ばして少しでも良くなるのなら今無理をさせる。でも治らないのだ。
苦しそうに息をしている顔をみるのがつらい。
また水を抜いてくれと言えば先生は抜いてくれるだろう。それでまた1週間で水がたまりまた抜く。だんだん水の貯まる速度も早くなるだろう。それをくりかえしながら死ぬのは子猫にとってどうなのだろう。意味のある延命といえるかどうか。
夫と話し合っていたらワブーと廊下で声がした。なんと息が苦しいはずなのにワブが2階から一人で降りてきたのだ。
「あらどうしたの。さみしかったの?」
というとワブは部屋にはいってきて、ちょっと高い棚の上に置いてあった他のネコの食べ残しのカンズメを食べ始めた。
「急にご飯を食べるなんてどうしたのかしら」
後で考えると不思議なことだった。
そのままご飯をたいらげたワブをひざにのせて撫でた。
腹膜炎の感染力はそれほど強いわけではないので、接触させなければまず大丈夫だし、もうこの家には長く居られないと思うと、いつまでも膝のうえにおいてやりたかった。


 


これも家族でとった最後の写真の一枚。
当時中学生だった娘が肩にのせている。
彼女が拾ってきたネコ達だった。すでに3匹が亡くなりこのワブだけになっていた。この写真ではよくわからないが片方の目の色が変わってきた。これもなにか病気が新しくでようとしているのかもしれなかった。
腹膜炎は最終的に全身症状になり多臓器不全をおこす。

その日は午前中に先生の所に向かった。
もう治療のためにうかがったのではない。
「先生、家の子として死なせて下さい」といった。
もうノラちゃんとして割引料金でみていただくのではなく、自分の子として看取りたかった。先生も黙ってうなずいた。
私はそのあとほとんど口もきけなくて、娘が気丈にやりとりをしてくれた。

「あのあと長かったね。良くがんばったね。でももうこの顔をみると限界だね。」
そう、だってやっぱりもっと生きたかったんだと思う。まだ6ヶ月になったばかりなのだもの。だからワブもがんばったのだ。
「こんなに性格の良い子と暮らしたらそのお家の人は幸せだったよね。」
確かに私はこの子が元気になって新しい家族として迎えられた先で、みんなを幸せにしてくれることを夢見ていた。それはかなわぬ夢だったのだが・・・。

注射をするとそのまま楽そうに眠ってしまった。すぐに呼吸は止まった。よほど無理に呼吸をしていたのだろう。とても早かった。
霊園の手配からなにから全て先生に頼んでしまった。自分では動転していてなにもできなかった。他の子達に比べて一人長く生きたワブ。
他の子達が自然に亡くなったのに比べて安楽死を選んだワブ。
ぎりぎりまでがまんさせて生かしてしまった。
でも最後の夜、なにもいったわけではないのに、2階から降りてきてご飯を食べて、膝でねんねした。まるで自分の最後を知って居るかのようだった。

愛猫ワブ号の霊位と書かれた半紙が多摩動物霊園から送られてきた。
それをキッチンのひとすみに貼りその前にご飯を備え、上を少し折って短くしたお線香をたてた。そして手をあわせると不思議なことがおこった。
私の肩になにかがのった。そしてあのワブ独特のごろごろいう呼吸音が耳元でなりはじめた。
夫にも真顔で「今ワブが肩にのった」と言った。
それが1週間くらい毎日続いた。それから徐々に回数が減り、一年もたつとだんだん聞こえなくなった。今はすっかり虹の橋のほうが楽しくなったのだろう。一昨年(2000年)、13歳のサティちゃんもそっちに行ったから。


 

ネコ伝染性腹膜炎について

ねこ伝染性腹膜炎はFeline Infectious Peritonitis(FIP)と呼ばれています。

コロナウイルスの中の突然変異したウイルスの感染によりおこるとも考えられている。

この伝染性腹膜炎のウイルスとネコの免疫が関わる病気で

一旦発症すると病状はしだいに慢性化し、完治の見込みの無いまま死にいたる。

 

ドライタイプとウエットタイプがあり、共通して見られるのは

○発熱の持続

○食欲不振

○元気喪失

であり、ワブたちのようなタイプはウエットタイプである。ウエットタイプは、

腹水の貯留がおこるネコの割合は85%、胸水は35%ほどであり、ほかに嘔吐と下痢がおこる。

今までにはっきりとした効果をあげた薬はなく、ワクチンもない。

アメリカではワクチンが開発されているが、その安全性は確立されていないという。

(資料サイバーペットホスピタル)

 

長い日記をお読みいただいてありがとうございました。

当時はまだ腹膜炎について詳しくわかっていませんでした。今もまだやはりなぞが多いようです。本文中に「肺に水」とありますが、正確には胸水といいます。あえてそのままにしてありますが、ここでお断りさせていただきます。ワブは残念ながら安楽死をいたしました。これでよいのか、本当に苦しませないためにはどうしたらよいのか。拾った子とはいえ、全く家族と同じに考えました。一部始終をみていた子供たちも今は2人とも成人しています。ほかの拾った子たちのことは多すぎてだいぶわすれていますが、このときの4匹のことだけは忘れていません。

腹膜炎という病気がはやく予防できる病気になりますように。
そして捨て猫というものがこの世のなかからなくなりますようにと祈らずにはいられません。